ケンミレ物語

割安株投資ソフトができるまで

1980年代半ばから投資の研究をスタートさせました。
最初に調べた事は「昭和24年からの戦後の株式市場で、日経平均株価が10%以上下落したのは年間で何回あるか」という事でした。
そうしますと、年間で2回が最も多く、続いて3回と1回がという順だということが分かりました。

もう一つ注目したことは、バブル相場でも信用取引をしている投資家の90%が負けているということでした。

「仮に転換点で10%儲けよう」と思えば、転換点が年間1回でも投資利回りは「年率10%」になります。

年間で平均4回の転換点があるとすれば、10%×4回の年率40%の利回りも夢ではないとすれば、個人投資家にとって最もふさわしい投資方法は「転換点投資」だと確信しました。

ケンミレがネットで情報の提供を開始したのは1997年9月1日でした。
最初は「投資すると負けますので、知識がつくまでは勉強だけでして、株式投資は我慢しましょうと云いました。

つまり、実際に投資をしないで毎月1万円を支払いましょうと云いました。
結果は、当初の数年は「株式投資をしないで勉強している投資家が半分以上」いました。

負けている投資家のほとんどは、分かっていても「高値を買ってしまう投資家」です。
ある投資家は、失敗した後で大きく下った時に買えばよいのは「分かっているけど、上昇している銘柄を見るともまだ間に合うかもしれない」と思って、つい買ってしまうと言いました。
当時は投資顧問をしていましたので、90%以上のお客さんは高値を買うことを止められませんでした。

この経験が有ったことから、1997年からサイトをオープンして「買わずに、大きく下るのを待ちましよう」という事を言い続けました。しかし、この時は、ケンミレがいうように「誰も株を買わなければ株式市場は終わる」と言って、色々な人に非難されました。

そこで、次に考えたのが「高値の間は買う銘柄が出ないソフトを作ればよい」と云う事でした。この高値を買おうと思っても買えない割安株ソフトの開発を2000年から始めました。

◆割安株ソフトが認知されるまで3年掛りました。
私は2億6000万円用意して会社をスタートしましたが、預金残高が1億円を割り込んで9000万円まで下落するまで赤字が続きました。

もし、資本金が2億円だったら「会社は倒産していた」事になります。
それほど割安株投資を普及させることは難しい事でした。

その間に、毎日2万字のレポートを書いて、3回「頸肩腕症候群」になり、自分でパソコンが打てなくなってから、女子社員に打ってもらったのですが、話している最中に寝て、寝てからも何か話しているということが何回もありました。

寝ると話につながりがなくなるので分かると、当時は女子社員に受けました。

私は1991年から毎日レポートを書きだし、2010年代半ばまで書き続けました。その目的は「私の役割は安全性を時陽した投資の啓蒙活動だ」と思っていたからでした。

その考えの延長線上に「負ける確率が低い投資=割安株投資」がありました。

最初は1992年に「桐」で開発をスタートしました。私はSEではないので桐がどんなソフトかも知りませんでした。桐でソフトが完成、しかし重すぎて動きませんでした。

次に会った人は「ロータス123」なら作れると言われて、ロータス123で割安株ソフトの開発をスタートさせました。

そして、桐と同じく全く動きませんでした。終ってから、こんな大きなソフトでは動かないとわれました。
次に会った人は「アクセスで開発出来る」と云われ、アクセスの開発がスタへートしました。この時には「出来ないのに、引っ張られ続けて、大きく時間をロス」してしまいました。

次のSEはオラクルを使いましょうと云われ、オラクルソフトを購入、さらに200万円掛ったオラクルの講習会にも云われて、講習会にも行かせました。

そして、6ケ月後に辞めたのですが、オラクルソフトのセロハン紙が「ついたままで、破られてもいません」でした。

私の開発の歴史は「10年間、騙され続けた歴史」でもありました。

本当に開発がスタートしたのは、開発をスタートさせてから9年後の2000年からでした。
漸く、C言語が出来るSE3名と出あい、そこから急速に割安株ソフトが完成して行きました。

今考えても、当時の3人のSEは「なかなか出あわないトップレベルのSE」でした。

長々と書きましたが、割安株ソフトの開発が始まってから約10年掛って本格的な開発がスタート出来たのでした。